日記

2011/06/04(Sat)
“ペテン師”と呼ばれた「首相」と「市議」
 内閣不信任決議案に関する菅首相と鳩山前首相の手打ちの内容をめぐり、菅首相の辞任の時期について2人の争いが続いている。鳩山は「早期退陣の約束のはずだった」と述べれば、菅は「時期は明言していない」などとトボケをかまし、いつまでも首相の椅子にしがみつく構えを見せている。そのため約束を反故にされた鳩山側はメンツ丸潰れで、首相のことを「ペテン師」「詐欺師まがい」と激しい言葉を使って攻撃し始めた。
 確かに政権の延命のために言を左右にしてきた首相の態度をみれば、鳩山の気持ちはわからないではない。だが鳩山という人は、ここでもツメが甘すぎる。これでは“子どもの使い”と言われても仕方がないだろう。民主党政権が国民の期待を一身に背負って当初ははなばなしく出発しながらも、早期に国民の期待を裏切ったのは、最初に首相に就任した人物が、このようなお粗末な人間だったことが大きかったと感じてならない。要するに、政権を獲った民主党は、最初の最重要の人材配置を誤ったのだ。
 ともあれ、時の首相が「ペテン師」呼ばわりされる事態は尋常なものではない。しかもその根っこには、権力維持という国民のためとの行動原理とは真逆の思惑が横たわっている。
 政治に関わる公職者で、「ペテン師」と呼ばれるべき者を想起すれば、立場は首相に比べてはなはだ“小物”ながらも、東村山市議の矢野穂積という人物を挙げざるをえない。権力をめぐる自己保身という本質も共通するものだが、その行動の多くがウソで塗り固められているのが最大の特徴である。菅首相の場合はここまで嘘が徹底されているとも思えない。
 2人は市川房枝というかつての女性政治家を信頼していることでも共通している。ただし、その「ペテン師」としての特徴ぶりは、矢野穂積のほうがよほど如実に体現されていると見るのが正しいようだ。ただし、繰り返しになるが立場的には“小物”にすぎないので、首相ほどには注目されないということにほかならないのだ。
 日本全体を見渡せば、こうした「ペテン師」は、ほかにもたくさんいるだろうと思う。