日記

2011/04/22(Fri)
デマの根源
 低劣右翼が東京高裁で再び敗訴したきっかけとなった原因は、いうまでもなく、東村山市議の矢野穂積・朝木直子が“作出”した荒唐無稽な「デマ」に求められる。
 問題となった1995年9月の東村山女性市議転落死事件において、「教団謀殺説」を発信した源(みなもと)は、この2人にほかならなかったからだ。詳しい説明は省くが、死亡した女性市議を自殺に追い込んだ張本人は、実は矢野穂積だった。矢野がいなければ、朝木明代は死ぬことはなかったと思われる。そうした責任を逃れるために、彼らは何らかの明確な措置をとる必要があった。
 時は阪神大震災・オウム真理教の地下鉄サリン事件からまもないころである。朝木明代が市議として、創価学会・公明党を過去に追及したこともあってか、「教団謀殺説」を考案したのは、矢野本人だったと思われる。死亡した明代の娘・朝木直子は、その時点ではそれに“同調”する存在にすぎなかった。
 2人の事後の共通した行動を見てみると、実は2人の“不適切な関係”は、実は朝木明代の死亡「以前」からすでに始まっており、そのことが明代の死亡に関係したのではないかと見る向きは多い。だからこそ2人は必死になって、明代を自殺に追い込んだ共同責任から逃れる目的で、「教団謀殺説」という荒唐無稽な推論を発信するしかなかったと見られている。ただしそれはヘビのような執念でなされたところに一つの特徴がある。
 彼らにとっては、政治生命を失いかねない「責任」を免れるためなら、手段は何でもよかったはずだ。「教団謀殺説」以外にもっともらしく見える何らかの方法があれば、彼らはためらわずにそちらを採用しただろう。たまたま当時は、それがいちばんもっともらしく世間から見られやすかった時期にすぎなかったということに尽きる。
 事実、多くの週刊誌メディアをはじめ、脱会者ジャーナリストがこの≪作出されたデマ事件≫にハイエナのように群がった。そうして民事訴訟になると、鵜呑みにしたメディア側は真実性をなんら立証することもできず、敗訴の山を築いただけだった。所詮は、証拠を伴わないデマに翻弄されただけだったともいえる。
 その根源をたどれば、結局は、矢野穂積・朝木直子の2人の存在に行き着く。2人は朝木明代が死亡してまもない時期に、仲良く手をつないで歩いていただけでなく、あるときは直子が矢野にしなだれかかるように寄り添っていた光景すら目撃されている。
 つまるところ、低劣右翼が騙された≪デマの根源≫とは、2人の「現職市議」の存在に、あるいはこの2人の“特殊な関係性”の中に求められることは、いまでは十分すぎるほどに明らかといえる。