日記

2011/04/06(Wed)
東村山に執着する「乙骨正生」の裏事情
 “バッジをつけた政治的詐欺師”「矢野穂積」が女性市議転落死事件(1995年)を利用して唱え始めた「教団謀殺説」――。矢野の“根拠なき言説”に有無を言わずに真っ先に飛びついたのは、元教団会員で、教団を叩けるネタであれば事実かどうかなどどうでもいいという行動で知られるジャーナリストの乙骨某(55)だった。
 乙骨は、東村山デマ事件という、戦後史に記録されるべき≪虚報事件≫を煽った、罪深き言論人の最右翼である。当時、オウム真理教の犯罪が明るみになり、坂本弁護士一家殺害事件の「真相」が世の脚光を浴びた時期でもあり、オウム事件を長年追及してきたジャーナリストの江川紹子氏などは、連日テレビで引っ張りだこになり、一躍、ヒーローのような扱いになった。そうした時流に乗る形で、矢野穂積が「創価学会謀殺説」を唱え出すと、それに尻尾を振って飛びついたのが、まさに乙骨某だったわけである。
 乙骨は自ら週刊誌にもこのネタを拡散し、その結果、複数のメディアが≪敗訴≫する事態へと突き進んだ。子供時代から“目立ちたがり屋”であったという乙骨は、自身を第2の江川紹子に見立てていたのであろうか。
 ところが、オウム真理教事件は、同教団特有の特殊的な犯罪行為であり、そうした手法を他の教団にも無理やり“類推適用”するなどという発想は、そもそも大間違いだったわけである。
 乙骨はなぜ東村山に執着するのか。そこには同人が幼少期を過ごした明確な背景というものがある。乙骨の父親は戦後まもない時期の日本共産党員で、同党を離れたあと、創価学会に一家で入会。当時、一家が暮らしたのは東村山市であった。父親は、東村山公明党の準機関紙の編集責任者を長らく務めた関係で、当時の党関係者と一定の人脈があったようだ。1978(昭和53)年ごろ、公明党の一人の市議会議員が高齢で引退することになり、次期候補者がとりざたされる時期になった。そのとき、自分を熱心に売り込んだのが、乙骨の父親だったとされる。要するに、公明党の東村山市議会議員になりたいと、自分から申し出たわけである。
 ところがそのころの乙骨の父親といえば、教団内で平然と不貞行為をはたらき、金銭問題でもトラブルが絶えない人物であったため、当然ながら、父親の要求が容れられることはなかった。その結果を受けてか、父親は同年暮れ、教団を脱会するという行動に出る。
 もともと宗教教団である同組織では、会員間の金銭トラブルや男女問題は“ご法度”となっている。息子の乙骨某も、そうした父親の影響を受けてか、同時期に教団を離れた。この父あって、この息子ありという関係にも見えるが、乙骨が東村山の地に執着する背景には、そんな裏事情も隠されている。その乙骨が、矢野穂積(市議)という“希代のペテン師”に騙されて、いまも教団謀殺説の立場を維持しているのは、皮肉な姿である。
 同人は今後も永久に、“第2の江川紹子”に昇格することなど決してなく、今後数十年以上にわたって、「事実を識別できない、阿呆な自称ジャーナリストがいたものだ」との、歴史的評価を受け続けることになるだろう。