日記

2011/03/03(Thr)
“不倫関係”を疑われた東村山の「2人の市議」
 95年に東村山駅前のビルから転落死した東村山市議の朝木明代(故人)は、8年前の1987年、初めて市議会選挙に立候補し、当選した。彼女の議員活動を強力にバックアップしていたのは、当時はまだ議員になっていなかった矢野穂積である(※矢野は95年に落選するも、娘の朝木直子から議席を譲り受けて初当選)。
 当時、朝木明代の夫・大統氏(故人)は大手銀行に勤務するサラリーマンで、一時は札幌支店長として単身赴任の身だった。すでに矢野穂積は、朝木家の娘ら(朝木直子など)の家庭教師をつとめていた関係で、朝木家に深く“入り込んで”いた。
 朝木明代と矢野穂積は朝木の夫がいないことをいいことに、深夜近くになっても親密に行動するなど、疑われかねない面もあったようだ。そのため、2人の関係に危機感を覚えた朝木大統氏の兄弟が、2人の行動をただす目的で「親族会議」を開催した。場所は朝木家の実家である東村山市の禅宗寺院である。
 そうした会議の開催を耳にした矢野穂積と朝木明代は、疑惑を否定するためか、その後、躍起になって行動したようだ。いまに至る得意の“威嚇行動”とみてよいだろう。会議を開いた中心格の人物にも、強く当たったようである。
 当時、2人の関係は市民からどのように認識されていたのか。ジャーナリスト乙骨某の著作によると、それは「朝木さんと矢野さんは、以前からW不倫関係にあり、2人が性交渉していた声が、事務所から漏れていたなどとの噂」が流れるようなレベルであったという。
 矢野穂積と朝木明代が終日、共に行動することは珍しくなかったためか、出てきた噂であろうが、東村山市民は2人の関係をそのようなものとして見ていたということを示す一つの情報ではある。実際、「足元」の親族からも、類似の非難が起きていたことは、上記の事実関係からみて明白である。
 ここで注意したいのは、矢野穂積という人物の、人格特性についてだ。矢野は転落死事件の渦中の1995年に「離婚」を経験したとされるが、そうした結末も、上記の経緯と因果関係がなかったとは到底思えない。
 95年の≪一大虚構事件≫=東村山デマ事件の背景には、こうしたドロドロとした人間関係が横たわっていたとみられる事実を、当時のメディアはまったく問題視しなかった。実は、問題の本質は、極めて単純で、よくある話だったのかもしれなかった。それらをカムフラージュ(偽装)する目的で、さまざまな「デマ」が意図的に流されていたとするのなら、その罪は二重に重かったことになる。
 亡くなった朝木明代の「後釜」に座ったのは、娘の直子だった。明代より、20歳以上若返ったことになる。