日記

2011/02/01(Tue)
矢野穂積によるフレームアップ  東村山転落死「デマ」事件
 東京・東村山市議だった朝木明代がビルから転落した1995年9月1日夜、その直前に明代が同僚市議の矢野穂積がいた「草の根事務所」を訪れた可能性が極めて高いことは何度も指摘してきた。明代は靴もはかずに事務所を飛び出したわけだが、そのとき明代は「もう真相をすべて警察に話すから」などと矢野に対して啖呵を切って飛び出したとの説がある。朝木明代が6月に行った万引き事件で、明代と矢野はアリバイ工作を行って罪を免れようと画策したものの失敗。そうした経緯について、明代があらいざらい警察にぶちまけると述べた可能性があったというのだ。
 矢野は午後9時すぎに事務所に戻ったとき、カギがしまっていてだれもいなかったとの主張をこれまで続けてきた。つまり、明代が何者かに拉致され、現場まで運ばれて突き落とされたとの“無理筋”のストーリーを維持するには、そのように主張するしかなかったのだろう。にもかかわらず、矢野は草の根事務所から、明代のポケットベルを鳴らした形跡すらない。明代が翌日の出張に備えて講演原稿をワープロで打ちかけのままだったとする主張も、実は矢野一人がそう述べてきただけで、本当のところはだれも確かめていない。
 朝木明代の死は「謀殺」であると主張しながら、矢野は東村山署による草の根事務所への立ち入り捜査すら断った。その理由を考えてみると、明代の靴がそこに残されていたという可能性だけでなく、ワープロなども詳しく調べられたくなかったことが考えられる。たとえば、文書フロッピーに、警察には知られたくない明代作成の文書が入っていた可能性もあった。ともかく、ここで結論として言えることは、矢野は「謀殺」という無理筋のストーリーをつくるために、草の根事務所内の状況をいいように“改変”できる立場にあったという事実である。
 矢野がとった最初の行動は、“創価学会批判”という「生肉」を投げつけてやれば、有無をいわずに猛然と飛びついてくる野犬の類いに、絶妙なタイミングでエサを投げ入れることだった。そのエサに「デマ」という名の毒が入っていたとしても平然と喰いついてくる、そうした群れの中心部に矢野はエサを投げ入れたのである。その中心部とは、乙骨某という名のお粗末なジャーナリストらであったことは言うまでもない。
 当時、矢野は“野犬の群れ”を味方にし、この事件のフレームアップを見事に成功させた。だがその後、野犬の主なるものは訴訟を起こされて“完敗”し、尻尾を巻いて逃げ去っていった。いま、それら野犬の代わりに同じ役割を果たしているのが、瀬戸某などの「ゴロツキ」らである。これらは野犬にも劣る存在である。