日記

2011/01/13(Thr)
母親の「後釜」にそのまま居座った朝木直子
 1995年、落選したはずの矢野穂積を無理くりに当選させるために草の根市民クラブが行った「議席譲渡」事件、さらには朝木明代市議の引き起こした万引き事件や会派で行った虚偽のアリバイ工作。草の根市民クラブは「壊滅」に向かってひた走っているように見えたとき、その流れに棹をさしたのが、同年9月に起きた明代の転落死事件だった。
 議席をかすめ取っていた矢野穂積と、議席を譲渡した張本人の朝木直子の2人は、明代の死が「謀殺だった」などと何らの証拠もなく主張。オウム真理教事件にわいていた時期でもあり、週刊誌メディアはばかげた「情報工作」にそのまま飛びついてしまった。そのため、最高裁で議席譲渡「無効」と判断されたあと、草の根の議席はいったんはゼロとなりながらも、99年に行われた市議会議員選挙では、2人は上位当選で“返り咲き”を果たすことができた。朝木直子は断トツのトップ当選、前回落選したはずの矢野でさえ定数26人中5位当選という好成績をおさめた。すべては朝木明代の死をいいように利用し、公然と「虚偽宣伝」を行ったことが不思議と時流にのり効を奏する形となった。いまから振り返ると、運がよかったとしかいいようがない。
 朝木直子はバッジをつけて初めて議員活動を開始。もともと直子にとって矢野穂積は、思春期に家庭教師をつとめてくれた間柄で、その意味では矢野とはいわば「師弟関係」にあったともいえよう。直子は矢野のおかげか、やんちゃな性格もおさまり、慶応大学に進学することができた。
 朝木明代の死後、朝木直子と矢野穂積が“恋人同然”に仲良く手をつないで歩く姿が目撃されている。直子は母親の明代の「後釜」に、そのまま居座る形となった。