日記

2010/11/25(Thr)
故朝木明代が抱いた“過重”なストレス
 歴史にイフはないとよくいうものの、95年の東村山市議会選挙で、仮に矢野穂積が「当選」していたらどうなったかを考えることは、極めて興味深い事実である。矢野が当選していれば、トップ当選の朝木明代、4位当選の朝木直子(初当選)に加え、矢野も初当選をはたし、草の根市民クラブは一挙に3人の議席を得ていたことになる。当然ながら「議席譲渡」という違法な手段を使って、議席のタライ回しをする必要もなかったわけである。さらに当然ながら、「議席譲渡」の無効を訴える市民グループと、必要以上の対立を起こすこともなかった。その意味では、朝木明代の「胸中」もまったく変わったものとなっていたはずである。
 朝木明代は初当選以来、矢野穂積のアドバイスを受けながら政治活動をつづけてきた。その意味で明代と矢野は、長年にわたる“二人三脚”の関係にあった。そこにふってわいたのが、娘の直子による矢野への「議席譲渡」事件である。譲渡行為の背景には、直子と矢野のただならぬ関係がすでに見え隠れしていたとも思われ、母親がそのことに何の関心も示さなかったとは考えにくい。
 結果的に、朝木明代の「胸中」に“過重なストレス”がかかっていたことは間違いない。そんな矢先におきたのが明代によって引き起こされた6月19日の万引き事件だった。洋品店で安価なTシャツを店に黙って持っていこうとしたところを見つかった事件だが、明代が金がなかったからこうした行為に及んだとは到底考えられない。過度なストレスが、明代をこのような行動に駆り立てたことはいまとなっては明白であろう。
 この事件は警察によって捜査され、明代と矢野は、大胆なアリバイ工作を始める。だがその工作は見事に失敗に終わり、逆にさらなる「墓穴」を掘り進めることになった。そうして9月5日に、明代と矢野の2人は東京地検に出頭することを求められたため、2人は9月1日午後、検察官出身の弁護士のもとに相談に訪れていた。明代の転落死は、ちょうどその日の夜に突如として発生する。
 事件を全体的に見る限り、矢野穂積が選挙できちんと当選していれば、(1)議席譲渡も、(2)市民との過度な対立も、(3)万引き事件も、(4)アリバイ工作も、(5)検察庁への出頭要請も、いずれもなかった可能性が高い。その結果、朝木明代は、転落死事件を起こす必然性はさらさらなかったということになる。
 結論をいえば、矢野穂積がきちんと当選していれば、朝木明代は死ぬ必要はなかった。その意味で、朝木明代が転落死するもともとの原因は、矢野の「力のなさ」、あるいは「人気のなさ」が招いたといえる。