日記

2010/11/14(Sun)
「草の根」が息を吹き返した理由
 東村山市民らが「議席譲渡」の無効を訴えていた民事裁判は1997年8月、最高裁判決によって正式に「無効」が確定し、95年以来2年以上にわたって議席をかすめ取ってきた矢野穂積は“失職”することになった。この時点で彼らの所属する「草の根市民クラブ」はいったんは無くなったのである。だがそれから1年半後の99年4月、朝木直子と矢野穂積は再度、市議会選挙に立候補し、リベンジを果たす。直子はトップ当選、矢野は35人中5位(定数26)と、これまた上位での当選だった。
 いったん壊滅したはずの政治勢力は、なぜ「ゾンビ」のように復活したのか。
 ひとえに、矢野流の「プロパガンダ」の成果といえる。故朝木明代の死をいいように利用した2人は、警察捜査にまったく協力することなく「教団謀殺説」を唱え、被害者である立場を強調した。実際には矢野は、明代を「ためらい自殺」に追い込む過程で、結果的に重要な働きを演じていた。万引き事件のアリバイ工作に加担し、明代を窮地に追い込んだからである。そのため彼らが思いつき、フル活用したのが、明代が教団によって殺されたということにして、自分たちの責任を一挙に免罪し、逆に「正義の味方」のように振る舞うことだった。
 こうした行動に、事実を識別できないお粗末なジャーナリスト・乙骨某などがまんまと乗せられ、多くの週刊誌も同調した。「草の根」が駆使したプロパガンダは、99年の選挙で見事、2人を当選に導く。このときの矢野が獲得した2159票は、同人の市議会選挙における得票数においては、最高のものだった。
 つまり、彼らは「虚偽情報」を意図的に垂れ流すことで、自らの政治的立場を高め、議席を得たことになる。矢野にとって1回目は、親密な関係にあった朝木直子の当選議席を譲り受けることで、さらに2回目は故朝木明代の死をいいように弄(もてあそ)ぶことで、まんまと議員バッジを手に入れることに成功したわけである。
 前回の選挙が行われた2007年時点で、矢野穂積が獲得した得票は1639票。つまり、2159−1639=520人が、8年間の間に“支持離れ”を起こした計算になる。それでもまだ1600人を超える有権者が、こうした“ペテン師的人物”に票を投じ続けている。
 矢野穂積らの「実態」はつぶさに知られれば知られるほど、同人の得票はますます減っていくはずだ。結論として、矢野の得ている議席は、自ら発した意図的な「虚偽情報」の上に築かれたものであり、「無実」の人物・団体を罪に陥れることで可能になったものだ。これらは≪政治的詐欺行為≫といっても言いすぎではない。