日記

2010/01/13(Wed)
「朝木明代」が最後に過ごした場所
 「草の根」側が過去の裁判で法廷に提出した証拠書類の一つ、料金明細内訳表によると、95年9月1日の夜、朝木明代の自宅から市内のどこかに電話した記録は、9時13分(4・5秒)、9時19分(9・5秒)のあとは、10時30分(1分45秒)まで待たなければならない。この9時台の電話は、明代が草の根事務所に架けた可能性が高いものだろう。10時台のそれは、娘の朝木直子が自宅に戻ってかけた電話とみられる。つまり、9時19分の時点で、明代は自宅にいた可能性が高い。そのとき明代は「少し休んで行きます」と事務所で電話中だった矢野穂積に伝えたということだ。
 そこから10時の転落まで41分。矢野らは明代がその自宅で拉致されたと主張してきたが、普通に考えれば、言葉通り、少し休んで事務所に向かった可能性が高いと思われる。自宅から転落現場にまっすぐ歩いたと考えても、その途中に事務所が位置する関係で、事務所を素通りして現場に向かったとは考えにくいからだ。さらに自宅から裸足で歩いてだれにも目撃されないということも、想像しにくい。
 要するに素直に考えれば、19分の電話のあと、15分か25分間ほど自宅で横になるなどして休息をとったあと、明代は9時40分から50分すぎまでの間に事務所に到着したと考えるのが自然であろう。そこで「何か」が突発的に起きた。もっといえば、「自死」を覚悟しなければならないような出来事があったのではないかと推認される。以上は「推論」ではあるが、事実的前提をもとにした推論であることをご理解いただきたい。逆に矢野らが意図的に主張してきた「拉致監禁説」などに比べ、はるかに現実味にとむ推論ということも納得いただけるだろう。
 逆に、むしろそうであったからこそ、矢野は警察捜査もろくに終わっていない段階から、責任が自分に向かうことを回避するための≪唯一の手段≫として、異常なほどに「他殺説」をわめきちらすという情報操作に乗り出さなければならなかった≪特段の事情≫があったと見ることができる。
 そうなると、単行本『民主主義汚染』の記述を借りれば、「草の根事務所」という2人が“プライベートな関係を深めた場所”から、明代は死を決意した行動に出たことになる。バッグが草の根事務所に置かれていたことはそのことを補強する材料であり、明代の靴が事務所に残されていたとの証言は、さらに決定的な意味をもつ。
 朝木明代は自分が死亡したあと、その死を利用して、矢野穂積らが「教団関与」や「他殺説」を声高に唱えることを望んでいただろうか。いえることは、矢野という「草の根」を主導する人物がいなければ、死に追いやられることもなかったであろうという確度の高い事実である。