日記

2009/03/30(Mon)
矢野絢也の「偽証」を“精査”しなかった「東京高裁」判決
 裁判官がどのような判決を下そうと自由だが、その認定過程が誤っていれば、結果も誤っているというほかない。先日の東京高裁判決の認定過程で、明らかに誤ったと思われるのは、矢野絢也らの「偽証行為」についてなんら精査しなかったという点である。これでは公平な判決とは到底いえない。
 もともと矢野らは、手帖が強奪されたものであるとの主張を補完するために、家捜しを強行され、女房の着替え姿を覗かれて「キャー」と叫んだなどの荒唐無稽の話を創作していた。この話の根拠は、矢野絢也と妻満子の「供述」のみしかない。
 今回の東京高裁判決は、物証であるICレコーダの記録内容について、合理的な科学的根拠も示さず、削除された疑いを指摘した。さらに、現存している音声部分について証拠とみなす考えを表明する一方、矢野らの法廷での供述などについては、なんら根拠を問うことなく、そのほとんどすべてをそのまま「認容」してしまった。それらを成り立たせる根拠は、結局のところ、裁判官の「推測」である。
 一方の当事者には科学的根拠を求めながら、もう一方の当事者には供述のみで足りるとする姿勢。これでは事実認定をする者として、およそ公平な態度とはいえないだろう。ボクシングや相撲にたとえていえば、それは「八百長試合」といってもいいレベルの結果にしかならないと思われる。
 矢野はいうまでもなく、明電工事件のころから顕著な嘘を用いて言い逃れを続けてきた「偽証常習者」にほかならない。そうした≪人格特性≫を無視して下された今回の判決は、過去に“希代のペテン師”山崎正友の法廷における偽証を見抜けず、同人の主張を真に受けた民事法廷の裁判官とまるで瓜二つといってよい。当然、認定された結論は、「真実」とかけ離れたものになってしまう。
 ICレコーダー記録にそこまでの厳密性を求めるのなら、もう一方の当事者である矢野絢也の「供述のみの証拠価値」についても、同様の厳密性・合理的根拠を求めるべきであろう。高等裁判所は、地裁とちがって当事者同士の尋問を行っていない。尋問記録という「書面」を読んで“追体験”しただけであって、矢野絢也が供述したときの声の響き、表情の変化、偽証がばれた瞬間のうなだれ方などを自分の目と耳で直接確認したわけではない。
 このことは物事をより客観的に判断できるという長所も考えられる反面、よほど慎重な態度をとらないと判断を間違いかねない危険性を伴うことを意味している。一方に偏しすぎていると感じたのは、そうした意味においても公平と思えなかったからである。