日記

2009/03/28(Sat)
「矢野絢也」が“偽証常習犯”であることに変わりはない
 昨日の高裁判決は個人的には予期しないものであったが、“既視感”があった。1審で一方が完全勝訴し、2審で完全にひっくり返るという流れについてである。
 高裁判決では、3人の公明党議員OBが録音した音声データの信用性について、かなり杜撰な判断をしたといわざるをえない。矢野側はもともと、このデータが改ざんされたものと主張していた。当方は専門家でないのでその点はよくわからないのだが、高裁判決もそれを受け入れ、都合の悪い部分が削除された可能性を指摘している。
 おそらくカセットテープ形式の録音であれば問題は生じなかったかもしれない。客観的に考えて、ICレコーダーの内容は物理的に「削除」はできたとしても、存在しないものを「挿入する」ことは不可能に近い。その音声が矢野本人の声であるかどうかは鑑定すればすぐに判明すると思われるからだ。そのため彼らは、「都合の悪い部分は削除された」という“グレー・ゾーン”に逃げ込むしかなかった。
 だが、その音声記録には、矢野本人が法廷で「絶対にそんなことは言っていない」と述べた言葉が随所に録音されていた。「(手帖を渡すのは)謗法払いのようなもの」という象徴的な言葉もそうだし、「本当に来ていただいてうれしいです」といった歓待する言葉もそうである。
 こうした点は紛れもなく≪揺るぐことのない偽証部分≫であり、しかも核心部分にかかわる偽証にほかならなかった。だが、高裁判断は、これらの点を敢えてことごとく“捨象”し、極端な判決を下した。
 矢野絢也の「人格特性」は、上記の偽証行為からも容易に判断できたにもかかわらず、そうした点を一切顧慮していないことは、やはり異常といわざるをえない。
 個人的には、手帖を返せ云々の判断は高裁段階でひっくり返る可能性は残っていると思っていたが、名誉棄損部分がゼロになるとはまったく予想していなかった。そのためか、判決後の講談社側代理人の喜びようは、まるで万歳三唱するかのようであった。
 今回、ICレコーダ記録の信用性について、1審と2審で正反対の判断が出されたわけだが、2審のその判断に明確な科学的根拠があるわけではない。自らの推測の流れの上に、そうした結論を位置づけたにすぎず、客観的にはグレー・ソーンの範囲内で評価が分かれたという印象である。
 それでも現段階ではっきりいえることは、矢野絢也という元政治家の人格特性はまったく変わってないという事実であろう。法廷でも平気でうそをつき、言い逃れるという顕著な特性のことである。その意味で、「偽証常習犯」という同人の形容は何ら変更する必要はない。