日記

2008/10/09(Thr)
「草の根」の闇8  講談社を欺いた矢野穂積らの「偽証工作」
 95年9月、講談社の発行する「週刊現代」は、9月23日号で次のタイトルの記事を掲載した。「東村山女性市議『変死』の謎に迫る! 夫と娘が激白! 『明代は創価学会に殺された』」。激白したという夫と娘はそれぞれ、朝木大統と朝木直子である。
 この記事に対し、創価学会は90年代に入って初めてと思われる雑誌メディアへの名誉毀損裁判を起こした。提訴は95年10月6日。被告は講談社、同誌編集長、さらに朝木大統と直子である。この提訴に先立ち、教団は9月12日には刑事告訴も行っていた。
 民事裁判で“異変”が起きたのは翌年8月に入ってのことである。被告の朝木側が突然、「週刊現代の取材は受けていない」との主張を始めたからだ。朝木直子は「取材の応対はすべて矢野穂積に一任していた」などと言い出し、被告の講談社と朝木親子との間で“醜いバトル”が始まることになった。
 実は、彼らは提訴を受けた95年10月17日、明代のアリバイ偽装工作に使われたいわくつきの「びっくりドンキー」というファミリーレストランで、善後策を協議していた。そのときの出席者は、講談社側が顧問弁護士の的場徹、「週刊現代」編集次長の加藤晴之ら。「草の根」側からは、朝木大統、直子に加え、矢野穂積が出席した。さらにどちら側かわからないが、、フリージャーナリストの乙骨某も。
 この時点ではまだ朝木側の代理人が決まっていなかったため、講談社側は朝木らについても同様に弁護する必要があるかもしれないとの認識をもっていたようだ。そのとき、次のような会話がなされたことになっている。
 ●的場弁護士 「(取材について)言った、言わないの話にはなりませんよね」
 ●矢野穂積 「そのようなことはありません」(はっきりと)
 ところがそれから1年もたたずして、講談社側の危惧は現実のものとなった。その結果、講談社側は、朝木らが「偽証」していることまでも加えて立証する必要が生じた。そこで講談社側から出された証拠が、「週刊現代」の記者が朝木大統、朝木直子に取材した際に作成したデータ原稿だった。例えば、朝木直子を取材したときのデータ原稿には次のような記述が含まれていた。
 「創価学会は、オウムと同じですよ。手口としては、まず、汚名を着せてレッテルをはる。そして、社会的評価を落とすのです。その後その対象となる人物が、精神的に追いこまれて自殺したふりをして殺すのです。今回で学会のやり方がよく分かりました」
 200字詰めの講談社の原稿用紙13枚に記されたこれらの文章は、いずれも裏づけ(=客観的証拠)のかけらも見られない悪質極まる一方的な“デマ宣伝”にすぎなかったが、朝木直子の率直な意見表明にほかならなかった。週刊現代側がこれらのデータ原稿を元に、記事を作成したことは明らかだった。そのため判決では、「(朝木)直子の証言及び供述は信用することができない」(一審)と明確に認定し、彼らの≪偽証行為≫を認定したのである。彼らは同じ被告の講談社からも、「いかに虚偽を積み上げても、自己に有利な展開を実現させさえすればよいとする被告朝木らの訴訟行為には、被告講談社としてはただただ絶望を感じざるをえない」(準備書面)とまで指摘される始末だった。
 その結果、裁判では被告らに連帯して200万円の賠償金と謝罪広告を命じ、2002年10月29日、最高裁にて確定した。判決では、朝木大統、朝木直子の責任が免除されたわけでは決してなかった。
 ではなぜ「草の根」側は、途中から一転して主張を変遷させ、「取材を受けていない」などという≪厚顔無恥≫な態度をとるに至ったのか。一言でいえば、教団が明代の死に関与したとの彼らの主張を立証することは不可能、と悟ったからにほかならない。そうなると、その責任は掲載したメディアだけでなく、発言者そのものに覆いかぶさってくる。それらの責任を放棄・回避するには、「私は取材を受けていない」と主張を転換するしか方法がなかったのだ。要するに“言い逃れ”である。たとえ「週刊現代」というメディアを≪裏切って≫でも、そうせざるをえない事情があったのであろう。
 これらの経緯を受けて、その後、「週刊現代」が「草の根」会派を持ち上げるような記事を掲載することは一切なかった。当然のことだろう。まるで“詐欺師”のような市議会議員たちに騙された者たちが、同じ轍を踏むことなど常識的にあろうはずもなかった。だが、そんな「草の根」であっても、その後、自分たちの都合に合えば肯定し、あるいは取り上げるメディアは依然として存在した。一つは「週刊新潮」であり、さらにもう一つは、乙骨某という名の“名誉毀損常習犯”のジャーナリストである。
 この裁判は、矢野穂積たちが自らを守るためなら、いかに平然とウソをつく種類の人間であるかを象徴的に示す結果となった。ここでは、メディアさえも、「ペテン師」らによる被害者となったのだった。