日記

2008/09/27(Sat)
「草の根」の闇2  矢野穂積と朝木明代の「最後の晩餐」
 9月1日、矢野と朝木は表参道で午後5時ごろまで担当弁護士と打ち合わせたあと、帰途に就いた。途中、西武新宿駅近くの和食店で2人で食事をしたことになっている。朝木明代にとっては、それが「最後の晩餐」となった。2人は西武新宿線で東村山駅に着き、事務所に戻ったあと別行動をとる。矢野は地元の会合に出席するために出かけ、朝木の行動はそこから不明瞭となるのだ。午後7時40分ころ、明代は転落現場方向から事務所方向に歩いているのを目撃された。さらに8時30分ごろ、自宅方向から事務所方向に歩いているのを目撃された。矢野は会合を終え、午後9時10分ごろ、事務所に戻ったという。そのときの状況について、矢野はマスコミにこうリークした。
 「私が戻ってきたとき、事務所の明かりは点いていました。当然、朝木がいるんだと思ってドアを開けようとすると、カギがかかっている。ドアをドンドンと叩いても返事がない。仕方がないので自分のカギで開けて入ってみると、誰もいないんです。クーラーもつけっぱなし、ワープロも電源を入れっぱなしで、作業中の文書が画面に映っていました」(週刊文春・同年9月14日号)
 「矢野市議が会合を終えて9時過ぎに事務所に帰ってくると、部屋に鍵はかかっていたものの、クーラーも蛍光灯もつけっ放し、そればかりかカバンも財布も置いたままで、しかもシンポジウムの講演プロットもワープロに打ちかけのままだったという」(週刊新潮・同年9月14日号)
 これらはいずれも矢野穂積の≪供述≫によるものである。実際に、カギが閉まっていたかどうか、朝木明代が本当にいなかったのかどうかについての「裏づけ」は実はどこにも存在しない。矢野穂積という人間は、自分を守るためにはどんなウソでも平然とつける特異人格であることはすでにさまざまな証拠から明白であるため、彼の供述はけっして鵜呑みにできるものではない。
 これは推測だが、うがった見方をすれば、カギは実際はかかっておらず、朝木の残したカバンの中に鍵束が入っていた可能性もある。そうなると、明代は事務所のカギもかけずに出て行ったことになる。ふらふらと、自殺をするために歩きだした可能性を疑われかねない。だから、カギがかかっていたと「創作」した可能性もゼロではない。
 いずれにせよ、転落現場では、朝木明代は身分を証明するものは何も身につけていなかった。現場には、カギもなかった。さらに靴も履いていなかった。このことははっきりしている。さらに朝木明代の遺体の足裏側には、裸足で歩いた痕跡が残されていた。
 ところが、不明だったカギについては、警察犬を使って現場検証を行い何も発見されなかったはずの現場周辺(ビルの2階)で、2日夕方に発見されるのである。だれかが後で置いたことは明らかだった。なぜなら明代のもっていたカギには、大きなキーホルダーがついていて、万が一にも見落とすような代物ではなかったからである。
 ちなみに靴については、事件直後に新聞記者の一人が、草の根事務所で女性物の靴が脱ぎ捨てられていたのを目撃したとの証言も残っているようだ(『デマはこうしてつくられた。』鳳書院)。事実なら、矢野はその靴を隠したことになり、転落死事件の真相を決定づける重要な証言となる。
 この事件で、カギと靴が見つからなかったことは、当時は不可解なこととして喧伝された。一方で、それらが残されていた可能性が最も高いと思われた「草の根事務所」、さらに「朝木の自宅」について、矢野たちは、警察の捜査要請を頑ななまでに“拒否”した。捜査されては困る「決定的な理由」があったことは、容易に想像がつく。
 いずれにせよ、「草の根」事務所の鍵がロックされていたかいなかったかということは差し置いたとしても、朝木明代はかぎなど何も持たず、裸足で歩きだし、「ロックケープビル」の階上から飛び降りたことになる。ただ、死のうとする意思はまだ十分に固まっていなかったようだ。まっすぐ頭から落ちて自死するほどの勇気はなかったからである。逆に躊躇する気持ちを残していたからこそ、いったんは飛び降りようと立ったものの、怖くなって態勢を崩し、ビルの塀にしがみついて「キャー」と声を発して足先からそのまま落ちてしまった(現場に残された痕跡はそのことを証明している)。フェンスの上部にわき腹をしたたかに激突させ、肋骨を折り、肺に突き刺さる結果となった。さらに足も骨折し、1リットルもの血液を流出させることになった。
 これは筆者の想像にすぎないが、担当弁護士への相談を終えたこの夜、朝木明代の胸中には、自分のしてしまった些細な万引き行為がきっかけで、警察・検察に追い詰められ、「草の根」会派にとって取り返しのつかない事態へ向かうことになったことへの重苦しいまでの「自責の念」が迫っていたのではあるまいか。さらに自分さえ犠牲になれば被害は最小限にとどめられるとの、悲壮なまでの決意が心を支配したのかもしれなかった。矢野の叱責がそれに拍車をかけたであろうことも、矢野の性格を知る者ならだれしも容易に想像のつくことである。
 西武新宿駅近くでの最後の晩餐から東村山駅までの車中で、あるいは「草の根」事務所で、矢野と朝木との間で、何か決定的な会話がなされたのかもしれなかった。真相はすでに矢野穂積の胸の内にしかない。だが、その後に矢野のとった異常なまでの≪突出した行動≫は、これらの推測の正当性を裏づける結果となっていた。