日記

2008/09/13(Sat)
「朝木明代」はなぜ救急車を断ったのか?
 1995年9月1日の午後10時ごろ、東京・東村山駅前の繁華街一角にあるビルの5階付近から地元の女性市議が転落した。転落した市議は一階の転落現場にしばらく横たわっていたものの、約30分後、第一発見者となったのは、ビルの一階に入っているモスバーガーの女性アルバイト店員だった。店長がそれを聞きつけて現場に出向き、「だいじょうぶですか」と声をかけている。市議はそのたびに、「だいじょうぶです」と答え、「救急車を呼びましょうか」と尋ねると、「いいです」とはっきり答えた。
 アルバイト店員が救急車の手配をしたのは10時45分ころ。さらに救急車が到着したのは10時56分。転落からすでに1時間近くが過ぎていた。重症外傷の患者にとって、最初の1時間に適切な治療が受けられるかどうかが生死を分けることが多い。救急隊が応急処置を施したあと、11時16分、ようやく病院に向かったものの結局、死亡する。
 重要なことは、なぜ明代が救急車を断ったかという事実である。もし何者かに襲撃されたのなら、真っ先に「助けて」「狙われた」などと叫び、「早く救急車を」と声を発したにちがいない。だが、彼女の言葉は≪正反対≫だった。この事実は、転落事件がどのようなものだったかを浮き彫りにする。
 確かに、司法解剖の鑑定結果によれば、両腕にアザがあった旨記載されているが、かといって争った際によく見られるボタンが飛ぶなどの痕跡は全くなかった。おそらく、このビルにたどりつく前にだれかと争った可能性も考えられるが、本人が死亡した以上、そのことを確定させることは困難と見られる。
 交通事故などの救急医療の現場では、事故後1時間を「黄金の1時間」と呼び、早期に診療開始できるかどうかが生死を分ける。つまり、結局は運ともいえるが、明代の場合は、ひどければ1時間以上放置された可能性もあったはずで、30分で見つけられたのは、早いほうだったかもしれない。
 もし仮に明代が蘇生し、今も生きていればどうなったか。転落にいたった動機も、本人は正直に話さざるをえなかっただろう。それでいちばん困ることになったのは、矢野穂積ではなかったろうか。
 さらに数日後には明代は検察庁に出頭し、起訴される事態へと発展したはずである。新聞・テレビで「市民派市議の万引き」として大々的に報道され、さらにその後「有罪」が確定した可能性は大なので、次の選挙はかなり危なかったにちがいない。加えて、もとから選挙に強かった明代に比べ、最初から選挙に弱かった同一会派の矢野穂積などは、議席を維持することは困難であったはずだ。
 明代が生きて、転落理由を語っていれば、教団謀略説など微塵も出てこなかったにちがいない。
 ところが、日付のかわった95年9月2日の午前0時30分――、同僚市議の矢野穂積から、東村山署に奇妙な電話が入っていた。「昨日の午後9時すぎに電話があったあと、朝木明代が行方不明状態になっている。何か通報は入っていないか」。
 この電話は、すでにこの時点で、矢野自身が、朝木の身辺に異変が起きていた可能性を熟知していたことを裏付ける。要するに、朝木が「自殺」するかもしれないという結末を、だれよりもわかっていたのが矢野だったと思われるからだ。
 だからこそいっそう、朝木市議の死亡は、問題解決の観点からも悔やまれてならない。
 乙骨某や段勲といった≪脱会者ライター≫らは、「取材時に割り勘にするような立派な市議が自殺するはずがない」といった主張を繰り返してきた。彼らは朝木との≪直線関係≫でしか物事が見えておらず、朝木を背後で操っていた矢野穂積と朝木との≪横のつながり≫がまったく視野に入っていない。というより、あえて見ようとしなかった。取材者としては、まったくの「片手落ち」というほかなかろう。
 真偽はともかく教団を叩くことのみがジャーナリズムと≪錯覚≫している輩たちと、「事実とは何か」を突き詰めて考える者たちとの、根本的な相違ともいえる。

 【上記の細かな事実関係は、信頼するジャーナリスト・宇留嶋瑞郎著『民主主義汚染』による】