日記

2006/05/14(Sun)
「週刊新潮・編集部」の実態(下)
 「元記者」による陳述書の後半部分では、新潮社きっての「捏造記者」の働きが、具体的に詳述されているほか、創価学会取材における同誌編集部の基本的スタンスも浮き彫りになる。さらには「アテ(当て)取材」なる、訴訟対策を主目的とした、形だけの直接取材の実態を指摘している。

5 署名記事について
 署名記事についてもそれは言えるでしょう。2003年末に週刊新潮が掲載した「新・創価学会を斬る」シリーズは週刊文春出身の山田直樹さんというライターさんの署名記事でした。私は途中から取材班に加わり、主に池田大作さんの若きエピソードを掘り起こしてくるようにとのことで、東京都大田区蒲田の池田大作さんの生まれ育ったといわれる地域を丹念に取材して歩きました。
 その折も、ある創価学会関係者のお宅にお邪魔して取材趣旨を告げ、「池田大作さんの若き日のお話について、週刊新潮ではありますが、決して悪い話だけではなく、いいエピソードもあればぜひお伺いしたい」といったことがありました。しかし、編集部に戻り、デスクを務めていた門脇副部長に報告した折、私は門脇氏から「そんな嘘をついて取材をするな」と厳しく叱責されました。
 私は一体、取材趣旨を告げることのどこに嘘があるのだろうと考えておりましたが、おそらくに同氏の頭の中には「いいエピソードも」という一節が引っかかったのであろうと想像できました。すでに書くべきトーンが決まっている状況のなかで、おそらくに「いいエピソード」が仮にあったとしてもそれを盛り込む余白などないということだったのでしょう。その瞬間、私は、「ああ、自分はこうした仕事から早く離れなくてはいけない」との思いを強くしました。
 そして、署名記事は山田直樹さんでありながら、山田さんが書かれた原稿を原型を留めないほどにほとんどすべて、担当デスクの門脇氏が書き直し、山田さんの原稿として掲載しておりました。週刊新潮には多くの署名原稿が掲載されますが、その多くは最終的に担当デスクの思惑に合致しない内容や文体の場合は最終的に取材を行っていないデスクが書くことが多く、その署名記事たる意味は形骸化しておりました。
 記事であれ、論文であれそこに仮説が存在するのは当然です。そしてそれを実際に取材し、または調べていくなかで、その仮説に変更を迫る事実が発掘されることもあるでしょう。そこには当然に変更とそしてバランスが求められるのですが、そうした注意を欠いた記事は私のなかで「偏向」以外ではありえません。

6 アテ取材について
 記事の締切直前に、記事で揶揄される人物に対して取材がなされるのは、編集部内では「アテ取材」と呼んでいます。
 「アテ取材」は本来、取材当事者に事実関係を丁寧に確認するという取材の基礎をなすものですが、週刊新潮の編集部で支配的な実態は訴訟対策用の意味合いが強く、名刺をポストに入れる等して反対当事者からの話を聞くべく努力した痕跡を残すという傾向のものです。
 週刊新潮のデスク陣に支配している「アテ取材」の実施実態は、真摯に事実確認をしたいというものではありません。取材したい内容が分かる程度には記載しますが、ほとんどの場合、結果としてできる限り抽象的に記載することに留まります。そして、ややもすれば、口頭で具体的な根拠などを五月雨式に示して質問をして即答を求めることが多いのです。
 当然、そのような質問の仕方では、質問を受けた側では、記憶喚起や資料確認の機会すらないわけですから、まともな返答が出来るはずがありません。また、自分を揶揄する内容の記事について急に取材に応じるように言われて気分を害する人もいます。さらに、申込み時には「本紙の締め切りの都合上、すぐに取材したい」などと加えますので、取材を受けた側では、このままでは自分が週刊新潮上で揶揄されるというプレッシャーをうけるだけでなく、時間をかけて事実確認をする暇などないと受け取ってしまいますから、まったく事実無根の内容であっても、相当に焦った心境で対応することとなります。
 しかし、週刊新潮編集部では、「取材をぶつけたがまともな返答がなかった」という事実さえ残せればよいという傾向が支配しています。
 また、「アテ取材」の副産物としては、上記の如き状態や心境で回答するため「あーでもないし、こーでもない」式な返答となったり、(実は週刊新潮として根拠のある些細な点に関して)実際に事実を勘違いして返答される方、また、実際に立腹しながら話をする方等もいて、そういったコメントを取得できた場合には、本人のコメント自体をさらに揶揄する対象として面白おかしく紹介することもあります。

7 最後に
 今回の○○○○衆院議員をめぐるひとつの記事についても、その事実関係は週刊新潮側においても真摯に精査されるべきです。まずは精査をし、非があれば非を詫び、訂正すべき点があれば訂正する。こうしたひとつひとつの「小さな恥と詫び」の積み重ねが、長い目で見れば、週刊誌に、報道媒体としてのさらに一層の価値を与えるものであると私は信じます。(了)