反日ジャーナリストなるもの

門田隆将という名の書き手は「反日」という用語を多用し、その相手となる対象を糾弾する論調が多い。さらに「多くの場合、彼らは『日本が嫌い』なのだ」などと平然と書く。ちなみに国語的な意味で、「反日」の反意語は何だろうか。「親日」か。ではジャーナリストを「反日」と「親日」で分ける感覚とは一体何であろうか。実はその行為そのものが、2019年を含む日本の現代社会を象徴するような出来事に思えてならない。私の場合、「反日」でも、「親日」でもない。南京大虐殺があったことは事実であるし、慰安婦が強制的に連行された事実も存在すると認識している。こう述べただけで、彼らは「反日」のレッテルを貼ろうとするような類いの書き手のようだ。要するに、「ファクト」に依拠するのではなく、「気分」にすぎないのである。気分の延長戦上に、彼らの言論活動は置かれている。つまり、「事実かどうか」が問題なのではなく、彼ら自身が「運動」の主体者なのである。自分たちが運動の主体者なのに、その反対の立場にある朝日や毎日を「運動」と揶揄して叩く。そうしたグロテスクな行為がこの国にはまかり通っている。結論から言うが、「反日」などの用語を多用する物書きはまともな感性を失っている。当人たちがそれを自覚できないほど「病い」は深いということだ。

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