映画「フクシマ50」の限界

あまり見たくもなかったが仕事の一環として3月6日、公開初日の「フクシマ50」を劇場で見た。原作者は門田隆将。週刊新潮記者時代からファクトに対しては極めていい加減な人物として知られていたので、この映画も事実の歪曲が多く指摘されている。一言でいえば、福島第一原発にとどまって奮闘した作業員ら約50人のお陰で東日本は壊滅をまぬがれた、福島に感謝しなければならない、日本人万歳!という趣旨の映画である。だがメルトダウンに陥った同原発がなぜ格納容器が爆発する最悪事態を避けられたかは映画では示されない。またこの50人の努力によって避けられたわけでもない。映画でもその事実にはふれているが、結局日本が助かったのは、偶然の産物にすぎなかった。それでいて、この映画は時の首相や東京電力を「悪役」として描き、現場で奮闘する彼らを「正義の人」として単純に2分化する手法で描く。結局、娯楽として楽しむにはそれなりのものかもしれないが、問題の本質を深めたり、浮き彫りにするような効果は少ないとしか言いようのない映画だ。もともとの原作のレベルを反映した結果としか言いようがない。最後の15分間は劇場の観客全員が涙が止まらなくなる展開になるなどと、原作者らは事前宣伝に努めていたが、私はむしろ最後の15分が冗長で、何を訴えたいのかの意図が散漫になっているとしか感じられなかった。描きたかったのは、友情か、現場主義の大切さか、不鮮明に映った。「英雄」をつくり、それを宣揚するこの映画の手法は、逆におそらく、共産主義社会などで多用化されてきたプロパガンダの類に近いものだろう。また日本の過去にもそのような時代があった。この種の社会映画は、深く、静かに、観た者に考えさせるように触発するものを個人的には望む。その意味で、この映画で熱演した多くの俳優陣にはむしろ同情する。もともと原作者の意図に限界があったということだろう。

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