追悼・北村肇記者

あれは1996年のことだから今から23年前のことになる。3年間勤務した社会新報編集部を私はその月限りで退職した。同年秋に行われた新制度のもとでの最初の衆院選挙で日本社会党は新しくできた民主党との間で職員が分かれることになり、多くの同僚らが共に働く職場ではなくなった。私も必然的に渦中に巻き込まれ、職場の地位を切られそうになっていた。社会党といえば労働者の党だが、その足元の労働者が首切りに遭おうとしていた。

今振り返ると私の人生における「最初の難」のようなものだったが、当時、すでに面識があり新聞労連委員長だった北村肇氏にも相談した。新聞労働者組合の責任者だったので、社会新報は政党機関紙であって正式な組合員ではなかったが、わがことのように心配してくれた。その後独立した後も、自身が編集長をつとめる「サンデー毎日」に原稿を書くように依頼する電話があった。当時、ある記者団体の事務局をつとめていた私は、何度か北村氏を講師として呼んだことがある。一度だけ、酒席を共にしたこともあった。そのときの印象は、市民運動家として草の根の立場で行動するもう一つの姿だった。「週刊金曜日」編集長になってからはそれほどの接点はなかったものの、私にとって記者のあり方を最初に教えてくれたのはこの人だった。つまり、権力と市民とが対峙する内容の記事の場合、記者はどちらの側につくべきかを明確に教えてくれた人だった。

その北村氏が今週月曜日に亡くなったことをたまたま目にした。現在の日本はせちがらい世の中となっているが、自身の半生のケジメとして、この文章を記した。

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