国民的熱狂をつくるな

歴史家の半藤一利さんが著書『昭和史』の中で、昭和史の最大の教訓として最後に述べていたことは「国民的熱狂」をつくってはいけないということだった。日清・日露で国民国家としての戦争を経験した日本国民は、勝利に向けて熱狂。その媒体として重要な役割を担ったのが当時の「新聞」だった。書けば書くほど売れる。売れれば売れるほど国民の熱狂度も高まっていく。明確な相乗効果が生まれた。売れるという一点で、メディアは一つの方向に歯止めなく流されていった。昭和になっても同様である。一方、現在に目を向けてみると、もはやそのメディアの役割は「テレビ」が負っているようにみえる。特にワイドショーが取り上げる日韓問題は、その機能を十分に果たしている。メディアはいうまでもなく、国民の意識を書き換えることのできる「意識産業」ともいえる存在だ。現在の日本も、世論は大きく2分されているように感じられる。韓国などやっつけてしまえといった心情と、もっと冷静になるべきという側とで分かれている感じがある。逆に後者の意見は「反日」などとレッテル貼りされる「時代の空気」がある。こんなことは少なくとも90年代にはまったくなかったし、2000年代に入ってもほぼなかったと思える。このコラムでは何度も指摘しているが、一つは2000年代半ばに創刊された極右雑誌『WiLL』の影響は大きかったと思う。それに加えて、同じ政治的傾向を持つ安倍政権になってから、その傾向に一層拍車がかかった。それらの結果、現在は一種の「国民的熱狂」を生んだ状態に陥っているように思える。仮に日本政府やその歴史認識について批判しようものなら、「反日」「日本を貶めている」などの短絡的な反応が返ってくる世の中だ。もともと日本人は一方の極に流れやすい。だからこそ、「国民的熱狂」をつくってはいけないと指摘されてきたわけだが、いまはまさにその「危険な渦中」に入ってしまっているように感じられてならない。こんなとき、政治家や言論人の役割も重要になる。 「煽る」人間には要注意だ。

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