日共検証2 真っ先に賛成したのは宮本顕治

昭和27年を頂点とする武装闘争で日本国民の信頼をいったんは完全に失う形となった日本共産党を実質的に立て直したのは宮本顕治元議長であった。戦前からの古い党員で、戦時中は治安維持法違反で刑務所に入っていた生粋の共産党員だ。 日本共産党はよく知られるとおり、「世界共産党」(コミンテルン)の日本支部として発足した外国人の援助によって誕生した政党である。その意味では出自からして、純粋に日本人の発想でつくられた政党ではない。このような「外国由来」の政党は現在の日本では唯一である。そのため日本共産党は長らく、ソ連共産党の「下僕」として生きてきた。 話は変わるが、日本共産党の立党時、ソ連に行くなどして尽力した創設者のひとりが徳田球一だ。この徳田をいまの共産党は「派閥が違う」という理由からか、大事に扱っていない。党史から故意に抹消しようという意図が明らかだ。人間として、あるいは団体として、創設者を大事に扱わない組織に、まともな団体はないと個人的に感じている。 ところで当の宮本顕治氏は、戦前から戦後のはじめにかけて、ソ連のスターリンに忠誠を尽くす人物として知られていた。要するに、スターリンのお気に入りだったのである。そのためか、1950年、コミンフォルムというスターリンの肝入りの団体が、日本共産党の姿勢は生ぬるい、暴力でも何でも使えとの趣旨の声明を発表した際、真っ先に賛同の意向を示したのはこの宮本氏だった。反面、当時の主流派であった徳田書記長などは、いったんはスターリンの意向を無視しようとした(その後撤回)。 なんのことはない。宮本元議長こそ、その後につながる同党の武装闘争の流れに、最初から「賛成」していた人物にほかならなかった。繰り返すが、いまの日本共産党はこの宮本氏の末裔である不破・志位らが率いている。 自分はまっさきに武装闘争に賛成する意向を示しておきながら、その後、自分たちが実権を握ると、「あのときは分裂していて正式な決定ではなかった」などと言い出したのは、宮本氏自身である。さらに現在の同党も同じ言動をオウム返しのように繰り返している。自分の頭で考えることのできない悲しい習性の結果であろう。 自分たちが最初に賛同していながら、都合が悪くなると、そのような事実さえなかったかのように平然と振る舞う。日本共産党が「ウソで成り立つ政党」であるという事実は、このような経緯ひとつとっても揺らぐところがない。

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