宮本顕治と瀬長亀次郎

日本共産党の96年の歴史は血塗られた歴史そのものだ。党幹部の多くが除名で追い出された歴史にほかならないからだ。スパイや密告、はては集団リンチ。戦後生き残った派閥は、“日本の小スターリン”と揶揄された「宮本顕治」の系列くらいで、不破哲三、志位和夫はその直系といえる者たちだ。宮本顕治は1908年生まれ、31年に22歳のときに入党している。最近あらためて認識したことは、沖縄人民党の瀬長亀次郎も、宮本とまったく同世代であったという事実である。瀬長の生まれは1907年、宮本と同じ年に宮本より半年ほど遅く入党しており、このとき瀬長は24歳だった。このコラムで何度か強調しているが、日本共産党はソ連に隷属する形で結党したため、長い期間、ソ連の支配下にあった。その日本共産党の事実上の地方支部であった沖縄人民党は、仮に沖縄の基地が米軍のものでなく、ソ連軍のものであったとしたら、反基地闘争は絶対に行っていなかった。その意味では「対米」というスローガンこそ同党の党勢拡大のための重要な手段であり、沖縄の状況がたまたまマッチしたにすぎない。日本共産党を弱者の見方と捉えたら、本質を見誤ることになる。 歴史にイフは存在しないものの、北海道にソ連の基地が誕生していたら、彼らは沖縄の米軍基地には反対し、北海道のソ連基地には賛成するという二枚舌の態度をとっていたはずである。 彼らは特段、人民(有権者)に心を寄せてきたわけではなく、自らの独善的な「主義」に心を寄せてきた存在にすぎない。

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