60年前のダブル選挙

1959(昭和34)年も、ことしと同じように地方選挙と参院選挙が重なった年だった。当時の日本共産党といえば、わずか7年前の52年に起こした警察官殺害事件をはじめ、同年東京・大阪・名古屋で起こした集団騒乱事件、さらに各警察署員襲撃事件をはじめ、多くの火炎瓶投げ入れ事件を惹起して日本社会を恐怖のどん底に陥れ、52年10月の総選挙ではそれまで35議席あった同党議員はゼロに、さらに翌53年4月に行われた参院選挙でも全滅、総選挙でかろうじて1議席を獲得したものの、国会議席数だけでいえば、事実上の壊滅状態に陥った。その後、55年7月には分裂状態にあった党内を統一、58年には野坂参三を党の顔ともいえる党代表者である議長に、宮本顕治を書記長とする体制が確立された。その初陣となる地方選挙では多少の躍進をみたものの、参院選挙では地方区ではゼロ、全国区でやっと1名を当選させるという結果だった。一方、1955年の地方選、56年の参院選から政治進出を果たした公明党の前身である創価学会候補は、59年の参院選挙では東京・大阪両方の地方区で議席を獲得し、共産党よりも好調な結果を残した。その状況を当時の共産党機関紙『アカハタ』は、「無所属では創価学会の進出が目立った」「共産党は地方区での当選者はなかった」と書き残している(1959年6月4付・1面トップ記事)。 「テロリスト集団」として日本国民の信頼を失っていた日本共産党が復活するきっかけとなったのは、一つはアメリカという外敵の存在だった。翌60年には安保闘争で大揺れに揺れる年となり、「もう岸政府ではだめだ」(1960年1月30日付)などと、安保反対の世論を糾合しようと躍起になった。また1959年といえば、日本共産党の強い要求によって、在日コリアンの北朝鮮への集団帰国が開始された年でもある。当時の『アカハタ』をめくると、これでもかこれでもかとばかりに北朝鮮ばかりを美化し、一方で韓国を暗愚の国とけなし、北朝鮮に帰国することのみがバラ色の生活を保障するかのような宣伝を重ねていた。 当時の日本共産党にとって、ソ連は親であり、主であり、師にほかならなかった。また中国も、北朝鮮も、親愛なる「兄弟党」であり、国際共産主義運動が現実に生きている時代だった。

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