多くの人生を狂わせた日本共産党の暴力革命

私の職業人生において師匠と呼べる人がいるとすれば、その一人は竹中労(1930-91)という名のルポライターだった。私が20歳すぎくらいのときに接したので、相手は50代半ばすぎだった。当時、竹中は『庶民列伝』という牧口常三郎の評伝を月刊誌に連載しており、そのルポルタージュを語る集まりだったと思う。その後も竹中の関わるさまざまな勉強会に出席したり、終了後の酒席にも何度か参加した。あるときのシンポジウムで、竹中は自身の日本共産党員時代の話を披露したことがある。

同党が1950年から日本で始めた暴力革命――。その中で、1952年5月1日に起きた「血のメーデー事件」という有名な事件がある。警察とデモ隊が激しくぶつかりあったこの事件で、竹中は派出所の上に駆け上り、最初に赤旗を立てたことを自慢していた。その後、逮捕・投獄されたが、竹中は「いまも党に残っていれば、不破哲三くらいにはなっていたと思う」と、冗談とも本気とも受け取れないような話をしていた。

その後、同党に愛想を尽かし、離れた。

後半生においては、創価学会の初代会長のルポルタージュを始め、名もない庶民がなした教団の戦後のムーブメントに、深い次元で「理会」を示していた。

91年に亡くなったとき、しばらく疎遠になっていたものの、本人のことを突然ふと思い出した。翌日、通勤途中のバスの中でなにげなく新聞を見ると、竹中の訃報記事が出ていて、「虫の知らせ」というのは本当にあるということを実感したのを覚えている。

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