職場で相手にされない自身を見つめないまま、独りよがりの行動を繰り返す

 足軽会3人の本を再読してみる。冒頭から末尾まで、自己正当化のオンパレード。これを額面通り受け取れば、創価学会という教団は「常識」が通じない異常集団であり、彼らはそれを正すために立ち上がった正義のヒーローということになるだろう。
 この本を読んでわかることは、彼らは、職場でもほとんど“相手にされていない”という事実である。以前にも書いたが、職場での信頼はゼロに等しい。だから話を聞いてほしいと持ちかけても、だれからも相手にされない。だがそういう状況を作ったのが自分たち自身であるという「視点」は、見事に欠け落ちている。
 創価学会という教団も世間と同じく、社会的常識のもとに運営されている。自分たちの論理ばかりをふりかざし、相手の批判をしているような者たちは、どの社会においても相手にされない。仕事のできない人間ほどそうであり、そうしたタイプはどこにでも存在する。
 彼らがまず考えてみるべきは、なぜ自分たちは相手にしてもらえないのか。なぜ信頼されないのか。自分たちの行動のどこが問題なのか。そこを見つけることが先決だったと思われる。だがそうした視点はこの本には一切というほどに書かれていない。最後まで、なぜ相手にしてもらえないのかという疑問を抱えたまま、≪同じ行動を繰り返すだけ≫である。
 およそ学習能力に欠けた、未熟な人間集団――。いずれの世界や組織においてもそのような種族は生まれるものだろうが、やはり“異質”そのものだ。この本に書かれているのは、物事の両面ではなく、片面、それもかなり歪曲された片面から都合よく切り取った一部にすぎない。この本を読んで、これが教団の姿だと捉える読者がいたら、勘違いもはなはだしい。
 まったくサラの状態でこの本を手に取るまともな読解力をもった読者であれば、この本はどこかおかしいな、違和感があるなと感じるはずだ。なぜなら最初から最後まで自己肯定のオンパレードであって、ある意味では、精神分析のよき研究対象にでもなりそうな内容だからだ。彼らはこの本で教団を「告発」したつもりでいて、実際は≪自分自身を告発している≫に等しい。
 大事なことは、職場で自分たちの主張を聞いてもらえるような日常的な信頼関係をつくることのほうが実際はずっと大事だったと思われる。そうした努力が彼らには決定的に欠けていた。そういう意味で、これは、彼らの反面教師としての“懺悔の記録”に等しい。

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