沖縄の亀次郎ブームを考える

沖縄で瀬長亀次郎(1907-2001)といえば、基地問題をめぐる米国の横暴に立ち向かった過去の有名な政治家というイメージが定着しているようだ。最近ではTBS関係者が瀬長を持ち上げる番組、映画、さらには名護市長選挙の直前のタイミングで著書まで発刊し、そのブームに拍車をかけようとしているかのようだ。

瀬長亀次郎本人が綴った回想録『沖縄の心』(新日本出版社)を手にとると、いかにも日本共産党らしい発想で書かれた内容に驚く。瀬長は復帰前は沖縄人民党という政党に中心的に関わり、事実上、本土の日本共産党の「別動隊」として機能した。さらに日本復帰後は、沖縄人民党は日本共産党に丸ごと合流し、自身は同党幹部に抜擢されて活動を続けた。上記の回顧録には、亀次郎が24歳のときに日本共産党に入党していた事実が淡々と明記されている。

復帰前、亀次郎の演説に感銘を受けた那覇市民は、同人を那覇市長に押し上げた。一方、米国は亀次郎に「共産主義者」とのレッテルを貼り、ビラなどで攻撃したが、いまとなれば、それらの指摘はいずれも正しいもので間違っていたわけではない。

亀次郎の回顧録ではそうした攻撃を「反共攻撃」などと書いているが、自分たちの主義を批判されたときに共産党関係者が使う常套文句にすぎない。亀次郎は「科学的社会主義」なる言葉を多用しているが、こうしたところにも、共産主義のバラ色を信奉した同人の心中がうかがえる。

先のTBS関係者が出した著作には、そうした共産主義の本質を隠し、「仮面」をかぶって政治活動を続けた瀬長亀次郎の実像には何ら触れようとせず、同人の行動を持ち上げるばかりだ。

瀬長が「不屈」の心で戦ったという事実は私自身も肯定できる。だがその動機となった共産主義社会建設という彼の胸中にあった真の目的は、いまとなっては何ら肯定できるものではない。

彼が今も「沖縄の英雄」であり続けられるのは、そうした目的成就がなされない段階で半生を終えたという結果がもたらしたものであり、たまたまそうなったということにすぎない。

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