「妙法のジャーナリスト」なる者の立場

 一般世間におけるジャーナリストの大きな役割が、権力監視にあることは常識的な事柄である。ただし、教団内でいわれるような「妙法のジャーナリスト」という立場があるとすれば、その役割はけっしてイコールとは言えないだろう。むしろ重ならない部分が出てくるというのが率直な感想だ。
 それは法華経という最高峰の教えを広めていくための唯一無二の団体である教団の円滑なる発展や、同時に世界各国で広がる布教活動の進展を側面から支えつつ、一方でそれらを妨げる働きとは徹底的に戦うべき立場にあるという考え方だ。例えば、教団を破壊する者が内部から生じることはこれまでの教団の歴史から見て永遠に変わらない法則であると考えられるが、それらが、「建設的な批判意見」の範疇にとどまるものなのか、それとも教団を≪破壊≫する方向で何らかの意図を含んだ批判となっているのかは、その中心者たちのそれまでの行動、あるいはそうした行動に至った個人的な動機などをつぶさに観察すれば、おのずと見えてくるものだ。
 私がなぜ「宿坊」板の批判に関わり、彼らの中心を批判するようになったかといえば、彼らの批判が上記の前者のレベルにとどまるものではなく、明確に後者に及ぶ批判を行っていることが明らかと思われるからだ。「城者城を破る」の例えの通り、客観的にみれば、それは獅子身中の者としての行動にしか映らない。
 結局は、自らなした行動が原因で、教団職員をクビになった連中を中心に、不平不満のハケ口を求め、徒党を組んで行動している姿にしか見えない。それらが現代的特徴ともいえるネット空間を使って行われているということにすぎないわけである。
 教団の発展を妨害する者あるいは結果的にそうした働きをする者たちが前面に立ちはだかってくるなら、それらの本質を明らかにし、徹底的に戦おうとするのは、「妙法のジャーナリスト」という立場を前提にすれば、ごく当たり前の行動にほかならない。

 ※個人的な事情により更新が数日間止まりました。本日より再開いたします。(Y)

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