カメレオンとしての延命術

立憲民主党の政見放送をなにげなく見ていたら、枝野代表の街頭演説のようすが流れていた。そこで同代表が「右か左かなんてイデオロギーの時代ではない」と叫ぶ場面が出てくる。正直なところ、半分正しく、半分正しくないというのが率直な印象だ。当然ながら、半世紀前のようなイデオロギーが対立する時代でないことは明らかだが、その一方のイデオロギーに今もきゅうきゅうとしがみついている政党が存在する。その政党と、立憲民主党は手を組み、行動しているのだ。

それはいうまでもなく、日本国家の共産主義化の「旗」を綱領で掲げる日本共産党である。だが同党はそうした自身の本質的な姿を故意に隠し、平和だ、人権だとまるでカメレオンのように振る舞っている。かつては真っ先に憲法9条に反対し、極左暴力路線をとったこともある政党が、近年は、「別の顔」で必死にとりつくろって生き延びている。その意味で、彼らにとっての「平和」や「人権」は手段にすぎない。

近視眼的に同党をながめる人たちは、自分の主義主張に合えば同党に心を寄せ、支持する姿勢を見せる人もいる。だがかつての同党の自語相違の姿を記憶している世代は当然ながらそうではない。彼らを「カメレオン」のような存在と見抜いている人たちは現に存在するのだ。

日本共産党は、同党をどういう長さのスタンスで見るかのリトマス試験紙のようなもので、皮肉なことに長いスパンで見れば見るほど、同党を信用できない度合いは高まることになる。

枝野代表は実際は共産党の本質を知悉しているからこそ、街頭演説であえて共産党の人間と一緒に並ばない戦術をとっているらしい。「ステルス戦略」といっているようだが、庇を貸して共産勢力に母屋を乗っ取られてしまったかつての京都府政の二の舞にならないことを祈るばかりだ。

 

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