波田地一派「田口伸明」の覆面を剥ぐ(下)  山崎・原島「2人組」の系譜

 歴史をたどると、第一次宗門問題を陰で主導し、池田会長辞任の流れをつくった一人は、教団の弁護士・山崎正友であった。教団から禄を食んでいる時代から、「覆面」を被って、陰で教団攻撃を行っていた行為は、田口伸明と何ら変わらない。山崎がおかしくなったのは30歳代後半からと見られるが、田口がおかしくなっていくのもその年代だ。
 一方で、原島嵩は山崎にその本質を見抜かれ、「駒」として使われた一人だった。山崎と原島は互いに利用し合う関係であり、その意味では、波田地と田口の関係とも似ている。
 原島は1979(昭和54)年9月、聖教新聞社から段ボール13箱分の内部資料を持ち出し、マスコミに流出させた。現在、田口らがさまざまなメディアに会内資料を提供していると見られるのもまったく同様の行為である。
 山崎と原島が創価学会を除名されたのはともに1980(昭和55)年。2人が亡くなるのはこれまた仲良く同じ年となる2008年だった。田口伸明と波田地克利が教団を除名となったのはその5年後の2013年、これまた同一の年のことだった(波田地の正式除名は翌年4月)。
 教団の歴史において、山崎と原島は「元祖・2人組」ともいうべき存在である。田口・波田地の2人は、その系譜を継ぐ“小ぶりな2人組”とみなされよう。2人が互いに利用し合う関係にあり、田口が波田地グループのたむろするインターネット掲示板で憂さを晴らすしかない状態を見れば、それもうなづけよう。こうした“小ぶりな2人組”の行動を、歴史の流れの中でとらえれば、彼らもまた「駒」の中の一つにすぎないという見方もできる。
 池田名誉会長がかつて語ったように、反逆者は“結託”するという大きな法則がある。最近も2人組のグループが他の除名者と連携する動きが見られた。「敵は内部から生じる」は歴代会長の遺言だが、その内部の敵の“はしり”が、いますでに眼前に見られる。
 1980年、原島嵩は『池田大作先生への手紙』を上梓し、山崎正友も著書を出版した。今回、原島の著作にあらためて目を通してみたが、彼らも当時、教団の刷新を唱え、自己正当化の言辞を繰り返していた。まるでその姿は、波田地・田口の言動そのままに映る。
 晩年に向け、山崎・原島の活動は “下火”になっていき、最後はわびしく亡くなった。同じ方程式が、再び繰り返されることになるだろう。

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