日本共産党は核兵器反対の立場だったといえるか 2

ソ連が核実験を再開

昨日付の「しんぶん赤旗」に、今年8月6日に広島市で行われる原水爆禁止世界大会で、志位委員長があいさつすることが決まったと発表する記事が掲載されていた。7月の核兵器禁止条約の採択において、「わが党はこれだけ貢献した」とアピールする狙いがあることは明白だ。実は1961(昭和36)年8月にも、同じように原水禁世界大会が外国の代表を招いて東京で開催された。大会は9~11日に東京・高輪プリンスホテルで予備会議、さらに12~14日が総会大会という6日間の日程で開催され、外国代表団の中心はソ連代表というように、各国の革新勢力を主体とする構成だった。まだこの時点では、主催する母体組織の原水協は社会党系・共産党系が合同で運営しており、分裂には至っていない。

この頃の国際情勢について、NHK取材班がまとめた『旧ソ連 戦慄の核実験』(1994年)によると次のようになる。やや長くなるが、そのまま引用しよう。

「ソ連は58年から核実験の一時停止を続け、60年にはアメリカ、イギリスも核実験を行わず、世界では核実験中止への期待が高まっていた。その時点では、アメリカの核兵器は3000発、ソ連は300発ほどと推計されており、核実験の中止は、核軍拡の狂気から引き戻す第一歩となるはずだった。しかし、それはつかの間の平穏に過ぎなかった。61年、世界は再び緊張に、いや破局の一歩手前に向けて動き出す」(P135)

世界的には核実験が停止された状態であり、核実験中止への期待が高まっていた時期である。当時、ソ連の首相はフルシチョフ、アメリカはケネディが大統領に就任して間もない時期だった。

話を戻すと、この1961年8月の第7回原水禁世界大会では、多くの決議が採択された。その中に核実験の再開を阻止するために努力することが明記され、その上で「もし不幸にして今後実験の再開あるいは継続が行われた場合には、その国は全世界人民の願いをふみにじり、戦争への道を選ぶ平和の敵として糾弾されなければならない」(アカハタ8月17日付)との勧告文が採択された。

いまから振り返れば、ごく当たり前の内容である。

だが、核実験を最初に再開する国は戦争の道を選ぶ「平和の敵」として糾弾されなければならない、とするこの決議が、その後、当時の社会主義陣営、さらに日本共産党にとって大きな問題となっていく。

その原因をつくったのはソ連だった。大会からわずか半月後の8月30日、ソ連政府は核実験を再開することを一方的に表明したからだ。決議内容からすれば、ソ連が「平和の敵」として糾弾されなければならなくなったことになるわけだが、これに対する日本共産党の態度は、同党の本質を今に示す、矛盾に満ち満ちたものだった。

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