元職員3人が属した「足軽会」の実態 2   発端は川崎学生部

 元職員の3人は、小生の記憶に残るだけでも、『週刊ダイヤモンド』『週刊朝日』『週刊金曜日』などさまざまなメディアにこれまで露出してきた。その記事の中で、「足軽会」という名称を目にした記憶がない。「足軽会」――。これが教団内部に生まれた一つの分派活動の母体であることはすでに何度か指摘してきた。彼らはその事実を敢えて表に出したくないということだろうが、「足軽会」の名称は、彼らが懲戒解雇の無効を訴えた裁判の一審判決にも次のように明確に出てくる。

 「X(※実際は実名)が中心となって平成14年11月ごろ結成した足軽会は、上記②の集団的な問題行動を起こす要因となったもの‥」(東京地裁判決P11)

 上記のXは、3人とは別人物である。3人(あるいは当初提訴の4人)は教団の本部職員だったが、Xは民間人である。彼らは同時期に川崎市の学生部幹部として共に活動した間柄である。彼らの所属する任意グループ「足軽会」が結成されたのは2002年11月。当初のメンバーは12人ほどで、中心者Xは、メンバーに対し、「抜けることは許されない」「抜けることを認める同志は叩き潰す」といった脅迫めいたメールを送っていたことも過去に紹介した通りだ。この時期、いったい何があったのか。
 一つはXらが男子部移行を命じられたという事実であろう。当時Xらは20代半ばから後半。教団内の慣例としては、学生部幹部が男子部に移行するには珍しくない年齢にも思えたが、当人らにとっては意に沿わない事情もあったようだ。
 それまでの川崎学生部は、折伏のできない学生部メンバーを幹部らで囲んで強く責めたり、方針に批判的なメンバーがいれば恣意的に“活動停止”を言い渡すなど、およそ教団の全体方針にそぐわないような活動を展開していた面があったらしい。当時Xは総県副書記長という役職であり、正役職ではなかったにもかかわらず、正役職者に匹敵する「実権」を振るっていたとの証言も残されている。地元学生部間でトラブルが顕在化するのはその後のことだ。
 代替わりした地元学生部幹部が、彼らが大手を振っていたころを指して「暗黒時代」と評したことで、足軽会のメンバーがそれに噛みつき、地元学生部間でのトラブルと化したのだ。Xらの世代の学生部はひどい時代だったという率直な気持ちを表明した言葉と、自分たちの時代を“全否定”されたと受け取った旧世代(主に足軽会のメンバーら)との対立が発火点となった。
 結局この件は、地元の上部組織が乗り出して、“喧嘩両成敗”という形で決着を図ることが試みられた。お互いに行き過ぎがあったことを率直に認め、反省するという趣旨の内容だったが、3人はその書面への署名を最後まで頑なに拒否し、その姿勢を崩さなかった。その結果、自分たちの過ちをまったく認めようとしていないと判断され、その後の役職解任などの「処分」へとつながっていく。
 人間、だれしも過ちはあるもので、若い頃はなおさらのことだ。彼らへの懲戒解雇や除名処分は段階的になされたものであって、その間、事態を冷静にとらえ、部員に理不尽な仕打ちを繰り返すなどした「過去」を見つめるための時間もあったはずである。だが、自分たちに一切の非がないという頑なな前提のもとに、「対話」を名目とした威迫活動を職場内で繰り返しただけでなく、現在も、問題を政治にすり替え、自分たちを正当化するための姿勢を変えていない。彼らに足りなかったのは、青年としての「素直さ」であったと思われる。

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